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2021.08.02
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【会長ブログ 「経営の勘所」 第1回】

 

❖織田信長は天才マーケッターだった!

~今、求められる「方向づけ&集中力」

        

株式会社日本マネジメント協会東部 会長 大内 光郎

 

 デフレ経済から抜け出せない中で新型コロナ禍に翻弄される日本企業、特に中小企業は強い向かい風の真っ只中にある。


コロナ特需(?)に沸く一部の業種以外は厳しい経営が続く。


このような時代だからこそ経営で最も大切なものは、組織活力の創造であろう。


そして社員個々にも、職場にも求められるそのキーワードは「方向づけ&集中力」である。


史上有名な「桶狭間の戦い」にそのヒントが見られる。


私は歴史家ではないが勝手に述べるとこうなる。


兵力3,000人の織田軍団が約10倍の兵力を擁する今川義元を桶狭間で撃破したことは有名である。それは、奇襲であり奇跡であると言われているのは周知の通り。確かにそう言えないこともないが、勝つべくして勝ったという説の方が有力なようだ。


当時の戦いは野戦か城攻め(信長側からすれば籠城)が中心であるが、もし野戦に挑んだとしたら10倍の戦力の義元に木端微塵に粉砕されたであろう。


しかし、信長はマーケッターであった。


当時の道路は狭く兵は弓や槍、鉄砲を持ち荷馬隊もいるのだから、義元3万の行列は一列か2列縦隊で行軍したと思う。しかも、徒歩が大半だから軍隊の先頭と末尾ではかなりの距離があるし時間距離もある。1人1mとして30kmもある長い紐なのである。


その紐の中ほどに1,500人から2,000人の義元の本隊がいた。そこだけに兵力を集中すれば勝てる可能性があると信長は考えた。しかも、先頭と末尾が応援に駆けつけられないくらい狭い山道を戦場にする、それが桶狭間だった。


義元の本隊が桶狭間に到着する頃合を見計らい信長は諜報を駆使して進軍した。その諜報役は藤吉郎や小六だった。その日は暑く、近在の社寺、大農家から義元に戦勝祝いの差し入れが届いたこともあり、桶狭間の木陰で宴を張った。


そこに雷雨である。


そのとき信長軍は桶狭間を見下ろす所に到着してチャンスとばかり義元本隊に集中攻撃をかけた。「一点集中」攻撃の勝利である。野戦、籠城という従来方式をかなぐり捨てた信長の創造的破壊は勿論のこと、攻撃地点、攻撃対象を絞った方向づけ、徹底した集中力の発揮が勝因であろう。その戦略と戦術は重臣にも極秘にしていたと言われるが、若者からすると死ぬかもしれない戦いについていくだけの魅力が信長にあったのであろう。


 組織活力創造には、変革の方向を定め、一丸となりそこへ向かわせるリーダーシップが最も重要である。


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